江戸時代の配送手段「飛脚便」はどのくらい速かった?

 

私たちはTowa Expressでは、自動車を使った貨物の輸送を手掛けています。しかし、自動車は比較的最近登場した技術であり、大量輸送に使うようになったのはここ100年程度の話でしかありません。では、それ以前の時代にはどのような手段で荷物を運んでいたのでしょうか。ここでは、江戸時代の配送手段である「飛脚」をご紹介します。

 

■日本での配送業・運送業のはじまりは飛脚便

 

 

飛脚とは、人馬がリレー形式で荷物を運ぶ輸送手段(もしくはそれに従事する人)をいいます。佐川急便のマークに使われているのをご存知の方も多いでしょう。

その歴史は古く、江戸時代の飛脚のルーツとされる「駅伝制」は、古代律令制の時代(7世紀後半頃)から存在していました。国内の主要道路に一定間隔で「駅」を置き、そこに人馬を備えて交通網を維持していたのです。ただし、現在の郵便のように誰もが使えるわけではなく、主に公用に使われていました。その後は一時的に廃れたり、戦国大名が独自の交通網を整備したりと変化していきます。

そして江戸時代に入ると、徳川幕府の手によって全国の街道の整備が本格化。「宿駅伝馬制」が確立し、各宿場が用意する人馬の数も細かく定められ、輸送や通信の手段としての飛脚が制度化されたのです。そのため、「飛脚=江戸時代」というイメージは間違ってはいないのですが、実際の歴史はずっと古いといえます。

ちなみに、1人の飛脚が走る距離は決して長くなく、せいぜい10km程度でした。現在の駅伝競走も、1人のランナーが5km~10km走りますから、大体同じような距離です。そもそも、名前から想像がつく通り、駅伝競走のルーツは飛脚や駅伝制にあります。箱根駅伝などを観戦する際、飛脚の姿を重ねてみるといいかもしれません。

 

 

 

■江戸時代の飛脚の種類

 

江戸時代に整備された飛脚には、用途や管理者に応じていくつかの種類がありました。大きく分けると「公用飛脚(継飛脚)」「大名飛脚」「町飛脚」の3つです。それぞれの特徴を見ていきましょう。

 

・公用飛脚

江戸幕府が設けた飛脚です。名前の通り公用を主体とし、重要な公文書なども運んでいました。さぞかし立派な格好していたに違いない……と思われるかもしれませんが、実は一般的な飛脚のイメージに1番近いのがこの公用飛脚です。半裸のような服装にわらじを履いて荷物を担ぐという、時代劇でもよく登場する格好をしていました。

 

・大名飛脚

大名が国元と江戸との連絡のために設けていた飛脚です。性質としては公用飛脚に近いものがあったと思われますが、費用がかさむなどの問題があり、町飛脚が発達するとだんだん廃れていきました。

 

・町飛脚

民営の飛脚です。一般的な飛脚のイメージとは大きく異なり、多くの場合は馬を使っていました。荷物の責任者である「宰領」が馬に乗り、馬を引く「馬方」を宿場ごとに借りて進むというスタイルです。最も数が多かったのはこの町飛脚で、公用飛脚とも競合関係にあったと考えられています。

 

 

■飛脚はどれくらいの速さで荷物を運べたの?

 

 

 

飛脚について考える際に気になるポイントといえば、やはりその速さです。人力で荷物を運んでいるのですから、トラックなどを使った現在の輸送よりは、確実に時間がかかることはわかります。それでは実際のところ、飛脚はどのくらいのスピードで荷物を運んでいたのでしょうか。

まず、飛脚にはいくつかのグレードがありますが、公文書などを最短で届けたい時などに使われる飛脚は、江戸~大阪間を3日間で走り抜けたとされています。これだけ聞くと非常に早く感じますが、速度に換算すると時速7km~8km程度です。現在のマラソンランナーは時速18km~19km、トップクラスの選手になると時速20km程度で走りますから、「飛脚はものすごく速い」というわけではありません。

ただし、マラソンランナーが走るのは、あくまでも舗装された道路です。コースには勾配のきついところもありますが、未整備の道を走るわけではありません。しかし、飛脚が走っていた江戸時代は、道がまったく舗装されていませんでした。文字通り山あり谷ありの道を駆けることもあったでしょう。加えて、荷物の引き継ぎの時間も考慮しなければなりません。

そう考えると、飛脚とマラソンランナーの単純比較はできませんし、今の感覚でも飛脚は十分に速いといえます。ちなみに、最高グレードの飛脚の料金は、現在の金額にして数十万円程度でした。かなりの高額ですが、何十人もの飛脚を雇っていることを考えれば、妥当な金額ではないでしょうか。